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第2部 世界の偉人たちの生きざま
チンギス・カン
あれだけの大国を築いたモンゴルとしては意外に少なかったのだなと思います。
さらにモンゴルでは有能であれば異部族出身者も積極的に登用したし、女子供、
老人まで馬を乗りこなし、当時は騎馬戦が主だったので、国民皆兵に近かった
のではないかとみる学者もいますから、そのことも考慮すると実際にモンゴル
人の成人男子の兵力はもっと小さかったのかも知れません。
チンギスは軍制を確立すると、次いで軍備を拡充するために鉄礦石を求めて
交易を盛んにし、いくつかの製鉄所で鉄やじり、刀剣、槍、馬具などの生産を
増強します。こうして準備万端整えた上で隣接する強国へ攻め込みました。ま
ずかって自分が仕えたことのある金を内政の乱れに乗じて疾風の如く攻略し、
金の都である中都を壊滅させ、略奪の限りを尽くして引き上げました。
次いで西夏、西遼、ホラズムと攻略し、南はインドのインダス川、西はカス
ピ海、北はシベリアに至るユーラシア大陸の広大な地域を自らの勢力下に置き
ました。チンギス・カンのこのような成功の要因を多くの歴史家は彼の類い希
なる「天佑」、つまりカリスマ性、あるいは統率力、戦略の巧
たく
みさといったチ
ンギス・カンの個人の素質に求めていますが、勿論それだけでこれだけの偉業
を成し遂げることは無理でしょう。そこには弟や息子たちの命を張った献身的
な協力、「鉄を中心とした資源の確保→適地までの交通路の整備→食料を中心
とする後方支援」という勝利へのシステム的な取り組み、侵略国の人々の自軍
への積極的な取り組みなどがあってのことでしょう。
滅ぼされたイスラム国の歴史家は、口々にチンギス・カンは残忍な殺
さつりく
戮者と
して非難しています。都市を破壊し、婦女や財宝を強奪し、数十万、数百万に
ものぼる虐殺を行ったと誇張して伝えています。それはチンギス・カンに徹底
抗戦の姿勢を取り続けた都市に対してであって、以降無駄な抵抗をする都市が
現れないようにするための見せしめでした。モンゴル軍の基本的な作戦は、オ
アシス諸都市を接収し、その経済的な繁栄をそのまま手に入れることでした。
そのため降伏した都市では住民の安全を保障し、宗教に対しても寛容で、モン