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第3部 房総ゆかりの人々
源 頼朝
平氏を一ノ谷から屋島へと追い落としました。
やがて京より大江広元・三善康信らの公家を招き鎌倉に公文所・問注所等の
機関を作り、政治機構を整えました。
1185年、屋島に拠った平氏を義経らに討たせ、ついに壇ノ浦において平家
を滅ぼしました。
こののち頼朝は、後白河法皇と結びついて自分の許可なく官位についた義経
を毛嫌いし、鎌倉に凱旋するのを止め、結局義経を追補し、加えてこれを後援
している後白河法皇を圧迫して天下の実権を握ります。同年義経追補に名を借
りて守護・地頭を設置し、着々と政権の基盤を確立していきました。
1186年、義仲・義経にくみした源行家を和泉に捕殺し、1189年には奥羽の
藤原泰衡を攻めて義経を殺します。奥州藤原氏を族滅した後、ここに奥州奉行
を置き、先に九州に鎮西奉行を設置したことと相俟って、一応全国統治を完了
しました。
1190年、入京して権大納言、右近衛大将となり、九条兼実とともに朝廷内
政治について協議の後、両官を辞して鎌倉に帰りました。
翌年公文所を政所と改めて幕府の組織を整え、法皇死後1192年征夷大将軍
に任ぜられました。翌年範頼を伊豆にしりぞけ殺し、1195年再度上洛し、そ
の威容を京畿に示して東大寺の落慶式に臨みました。
頼朝は1199年病没します。頼朝によって始められた武家政治はその後700
年続き明治維新に及んだのです。
(注)この紹介文は主として「世界人名辞典」(東京堂出版)によっています。
市原市の清水家に伝わる源頼朝伝承
頼朝は1159年の平氏との戦いにやぶれて囚われの身となって以来20年もの
間、伊豆の蛭
ひる
が島に流罪になりました。その間は毎日父や一族の者を供
くよう
養する